森達也監督の新作映画が封切られるので、prime videoで『A』を見ました。
私は、これはとても意味のある映画だと思うのですが、人に「面白いから是非見てよ!」と手放しで勧められるようなシロモノではありません。
だって、面白くないから(笑)
初めて見ると、「ドキュメンタリー」と聞いて想像するものとあまりにもかけ離れていて、びっくりします。
森達也監督の映画は、驚くほど不親切です。そして、すごくつまらない(笑)
ナレーションも字幕もほぼ皆無で、被写体に質問する森監督の滑舌もあまり良くない。(失礼)
作中で何も説明してくれないので、事件についての知識がないと「被写体が誰か」すら分からないし、エンタメ要素ゼロなので、ものすごく退屈です。
それでも「本来ドキュメンタリーってこういうものなんだ!」という衝撃を受けます。
地下鉄サリン事件(1995年)直後のオウムのリアルな映像が、ここにはあります。
報道で使われた映像ではなく、教団内部にカメラを持ち込んだ、「森達也だけが撮れた映像」で構成されているので。
中立などあり得ないという監督の言葉通り、一見素材を無加工のまま繋げているようで、「教団を包囲する社会の方が悪」のような印象を受ける場面もあります。
撮影時のアングルや編集の仕方で見る者に与える印象をここまでコントロールできてしまうんだなと、映画の危険性を発見できます。
映像はすべて作為の産物だ。ストレートニュ ースで紹介される十秒間の悲惨な交通事故の現場でも、道路脇に供えられた花から撮るか、傍らを疾走するトラックから撮るかで、映像の印象はまったく変わる。これを決めるのは撮る側の主観なのだ。
ーーそれでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)(Kindle版)より引用
実は全くオウムを擁護していない
『A』は、完成直後は「オウム擁護の映画だ」と叩かれ無視されどこでも上映できなかったので、商業的には完全な失敗作です。
ところが、良く見るとこれっぽっちも教団を擁護していない。
見方によっては逆に「教団の不気味さ」が際立っています。
被写体の信者の言葉に耳を澄ますと「俗世を捨てた自分に怖いものは何もない」という意味のことを平然と言っているし、見る人によっては「こんな狂った連中だからあんな事件を起こしたんだ」と感じるかもしれない。
正気とは思えないことを口走っている信者や、ゴミ溜めのような不衛生な施設で集団生活をしている映像が全くの修正なしに流れるので、かなり怖い。
「殺人集団という先入観を捨ててありのままのオウムを撮影したら、やはり彼らは異常者の集まりだった」という解釈も可能です。
いわゆる「転び公妨」(監督の言では「転ばせ公妨」)をカメラが捉えた瞬間は、映画の真ん中あたりにあります。
延々と退屈な映像が続いていた中、いきなり緊迫感が増します。
ここのやりとりは、退屈なこの映画の中で娯楽性を感じられる、数少ないシーンです。
ただし映画だけだと何が起きているのか分からないので、文章での説明も併せて読まないと全貌が掴めません。
制作途中の映像素材を第三者に見せたり貸したりすることはできない。確かにこれは大原則だ。しかしその大原則の根拠を、今この瞬間明確に説明することができない自分に気がついた。
ーー「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)(Kindle版)より引用
新作
9月1日公開の新作の予告
◤ 本日9/1(金)より映画『福田村事件』公開!◢
— 映画『福田村事件』関東大震災から100年、9月1日公開 (@fukudamura1923) 2023年9月1日
本日、テアトル新宿にて舞台挨拶を行いました。
テアトル新宿での舞台挨拶は1回目、2回目ともに満席。
その他劇場でも初日から多くのお客様に観ていただけて大変嬉しく思います。
ご来場くださった皆様、誠にありがとうございました!#福田村事件 pic.twitter.com/DYtPvSWLWU